プロフィール

ホワイト森山vs小野武志

プロレスラーのホワイト森山です。

少し前まではサラリーマン生活を送っていましたが、諸々の事情から現在はフリーランスのWebデザイナー・Webディレクターなどをやったりしながら日々過ごしており、元プロレスラーだった妻と一緒に夫婦でこちらの会社もやっています。

ブログを見ていただいた方からのSNSを通して、お仕事相談のメッセージをいただくようになってきましたので、改めて今まで過ごしてきた生い立ちや格闘家・プロレスラーとして行ってきた活動など、プロフィールをご紹介させていただきます。

※2021年4月時点のプロフィールです。

誕生から幼少期

1978年9月30日。神奈川県生まれ。

予定日になってもなかなか産まれてこず帝王切開で誕生。
3800gを超える体重だったため、病弱な子どもたちが多かった森山家では規格外の大きさだったため、祖母はかなり驚いたそうです。

商売をやっている家(魚屋)で父方の祖父母にとっては初孫、そしてまだまだ男の子を喜ぶ昔ながらの家柄だったため、それはそれは甘やかされて育ちました。

幼少期は両親とも祖父母の営む魚屋で働いていたため、乳児期は母が背中におんぶして働いていたと聞かされています。
もちろん全く記憶にないです。

記憶に残っている頃は日中は両親がお店に出ているので、自分はずっと祖母と一緒にいた記憶ばかり。
平日は祖母と一緒で欲しいものは何でも買ってもらえ、祖父が都内へ病院に行くときなどはついていき、そこでもやはり欲しいものが買ってもらえ、いつの間にか、こうと決めたら頑として譲らない我儘な人格が形成されていきましたとさ(笑)

待機児童問題なんて言葉もない当時、当たり前のように保育園に入れたものの、あまりの行きたくなさに送り途中の車の中で天井に頭を打ち付けるなどの大暴れを繰り返し1週間で退園したという未だに母親から言われることもありますね。

なので、娘たちが保育園行きたくないなんて言っても咎められる立場にない…

4歳になるころにはようやく幼稚園に行けるようになり、ある程度友達もできました。
年中からの入園で一年経って年長になるという時に、実家の魚屋の近くの幼稚園に転園。

ここで過ごした友達関係が30年以上経った今でも続いているのは不思議なもんです。

小・中・高

人前に出て闘っていたので、表に出ることが好きなんじゃないかとよく言われますが、極度のあがり症で人前は苦手。

人と接することも苦手なので初対面の人はまず受け付けないようなタイプです。

目立つことはしないけど、何故か気にかけてくれる人たちが周りにいてくれたおかげで、友達は多かった方かもしれないですね。

小学校時代はずっと丸坊主、加えて高学年は少し太りだして小太り体型。
運動嫌いだけど走ると速く、走り幅跳びも結構飛べた方だったので、脚力あるのは先天的なものかな?

中学校時代は小学校からの大きな環境の変化になかなか慣れず戸惑っていたけど、今でも一番の親友と呼べるような友達と出会ったり、プロレスにハマったり、結構無茶なことやってたりして一番目の人生のターニングポイントとしては中学校時代でしょうね。

この頃からだろうか、男女問わず何故か先輩からはよく可愛がられるようになっていったような気がする。
年上の方々に良くしてもらえるのは今でも続いてますね。

格技場でのプロレスごっこに明け暮れる日々で、この頃から少しずつ将来はプロレスに関わることがしたいなと思うようになってきました。

体力・体格のこともあるし運動が出来ない事は自覚していたので選手ではなく社員として新日本プロレスに入れないかなぁ~なんて。

良い教師には出会えなかったけど、とにかく楽しく過ごした、あっという間の3年間。

高校時代は中学時代が楽しすぎたため抜け殻状態。

部活もそれほどやりたいものがないので無所属になり、何をやろうか迷うことも無く帰宅部。

1年の時に担任になった数学教師に「じゃあ勉強やれ」というような感じで言われるがまま朝7時半には学校に行って自習室で数学の勉強をするという、非常におかしな流れに乗っかっていくことに。

2年のときに友達の紹介で地域の空手道場に入ったが、当時からあまり打撃系格闘技が好きになれなかったこと、型中心のスポーツ空手で試合も寸止めルールというのが恐ろしくつまらないので、すぐにフェードアウト。
蹴りのミット打ちは良かったが型の練習は本当にクソだった。今でも型の意味がわからない。

そのまま数学、物理、地学と理数系科目を選択して2年、3年と理系クラス。

そして、いつの間にか進学チームの仲間入り。

3年の予備校模試で国語も受けていた時に古文、漢文に興味を持ち徐々に軌道を外れていきます。

成績こそ良かったものの別に理系科目が好きではなかったことにようやく気付き(笑)、3年の12月に文系転向という暴挙に出ました。

当然、入試は全て不合格。

1年浪人の後、無事に日本大学文理学国文学科に合格。

ガチガチの理系から1年で国文学科に進むという振り幅(笑)

大学時代、U-FILE CAMP入会、そして格闘技デビュー

大学時代も比較的ちゃんと勉強した方だろう。

…と思っている(笑)

国文学科の専門科目はちゃんとやっていたが、一般教養などはサボったりすることも多く4年まで引きずっていたため合格最低ラインが124単位のところをギリギリ124で奇跡的に卒業できた。

入学当初は野球サークルに入っていたのだが、何か勢いで入った感もあり大して楽しくもない。

相変わらずプロレス・格闘技は大好きでした。

新日本プロレス→UWFインター→リングスという感じで、自分の中ではリングスブームが絶頂となっていた中で、当時のエースだった田村潔司選手が地元エリアにU-FILE CAMPをオープンしたという情報が週プロに掲載されます。

行きたい気持ちはあれど自身の体力不足を心配して悩むこと1年。
ようやく決心してU-FILE CAMPに入会しました。
そもそも趣味で始めようとしているのに体力不足を悩む必要もないと思うのだが…

大学のサークル活動はつまらなくてフェードアウトしつつあったところだったし、格闘技をやってみたいという気持ちが強くなり過ぎていたので丁度良いタイミングだったんでしょうね。

入会してからほぼ毎日U-FILEに通うようになるまでそんなに時間はかかりませんでした(笑)

次第に練習だけじゃ物足りなくなり、アマチュア大会に出場するようになります。
当時はアマチュア格闘技大会全盛期!?と言っても過言ではないぐらい大会が開催されていました。

初めて出場した大会で3位入賞し、運動苦手だった自分が格闘技の大会で入賞するなんて夢にも思わなかったことです。

アマチュア大会に出ていた時期はまだ大学生。
就職活動なんてものは一切せずにプロの試合に出る選手達の練習に付き合っていました。

その内に自分もプロの試合に出たいなと少しずつ思うようになってきました。

結局、大学時代は就職活動を全くやりませんでした。
その状態での大学卒業だから、卒業した後は学生時代からそのままバイトを続ける日々です。

このまま明確な目標もなく続けていてもしょうがないから、卒業して1年経ってもプロの試合に出れないのであれば、スッパリ辞めようと決めたのが2002年の9月頃。
ちょうど誕生日を迎えたあたりですね。

その後も出場したアマチュア大会で結果が出せなかったので、諦めて就職活動ってどうやるんだろうなぁって考え始めたときにDEEP出場の話がきました。

本来出場するはずだった選手の代打(の代打)として出場し、結果は決勝戦進出の準優勝。

まさかのプロのリングで試合をすることになり、これが一つの転機となるのでした。

人生なんてわからないもんですね。

この時期の格闘技生活詳細についてはこちらでも記事にしています。

総合格闘技から一転してプロレスデビュー

DEEP2001 7th IMPACTでプロのリングに立つことができた2002年の12月。

試合でそこそこのダメージを負ったものの、年末には練習出来るぐらいまでになって、無事に年を越すことが出来ました。

2003年1月の練習中に鼻骨骨折。

翌週にジムの大会で試合が決まっていたため手術までに日が空いてしまいました…

骨折してすぐなら局所麻酔で済んだものの、しばらく時間が経って骨が固まり始めていたため全身麻酔で手術をすることになりました。

記憶している限り、これが生まれて初めての入院、そして手術だと思います。

せっかく試合出られたのに骨折して手術して休んで…

当分は試合の機会がないだろうなと思っていた矢先の2003年4月、バイト先の昼休みに寝転がって週プロを読んでいると、当時の所属ジムのマネージャーさんから電話。

「森山君プロレスの試合出てみない?」

断る理由はなく、もちろん了承。

ここから4日後のK-DOJOディファ有明大会のリングにてプロレスデビューを果たすのでした。

今思うと、本来はこんなに簡単にプロレスデビューして良いものだとは思いません。
格闘技同様に自分は段階を踏まないといけないタイプだったわけですが、総合格闘技が盛り上がりだしていた時期、格闘技選手がプロレスのリングへ上がるという流れもブームとなってきており、その流れに乗るような形でのデビューとなったわけです。

これは総合格闘技の試合と違って、完全にタイミング。運ですね。

あれがあって良かったとは思っていますが、繰り返しになるけど本来は良くないことだと思ってます。

プロレスがやりたい!

中学時代の思いが叶ったとなれば、次第に格闘技への熱が引いていきます。

思えばここも人生の分かれ目だったような気がします。

プロレスデビュー→ケガの繰り返し→フェイドアウト

プロレスデビュー後、上手い具合に試合の話をいただき、毎月1回は下北沢の北沢タウンホールに呼ばれるようになりました。

格闘技の時よりも断然ペースが多く、怒涛の日々。

どういうわけかDDTとも絡むようになり、2003年9月には後楽園大会にも出場。

今やサイバーエージェントグループとなり飛ぶ鳥を落とす勢いのDDTですが、実はだいぶ前に出たことがあるんですよ(笑)

と、この辺りまでは順調?

順調っぽく進んではいるように見えましたが、元々スポーツ歴がなく体の出来ていない状態で20歳過ぎてから始めた格闘技、そしてプロレス。

ダメージは思ったよりも早く体に蓄積されていくのでした。

そして迎えた2005年8月。

「バチバチ2」のリングで、現在も新日本プロレスで活躍する石井智宏選手と対戦。

試合中に初めて記憶を無くすなど、ハードな試合で背骨を亀裂骨折。

首の具合も悪くなり、練習もままならない、私生活でもクソみたいなことばかり起こり、プロレス・格闘技を続けていく自信がなくなり一方的に辞めると発表してフェイドアウトしていきました。

頸椎ヘルニアの影響で腕の痺れが酷く、腰も背骨の骨折の影響からヘルニアを発症して腰がガチガチに固まって左足も痺れている状況。

この辺は何をしてもつまらない、生き甲斐の無い時代ですね。

何もないなら手に仕事を!ウェブ制作を学び始める

体の状態も非常に悪く、力仕事は当然できない。

通いでどこかに仕事も出れない。

ただ、そのままにしていてもお金は無くなっていく。

何か自分に技術でもあれば…と考えたときに、そのとき一番興味があったのがホームページ作り、ウェブサイト制作でした。

接客が苦手で事務仕事のバイトを多くやっており、その中でもデータ入力などパソコンを使う仕事が得意でした。
そんな流れから、ジム内でプロレス興行を立ち上げたときにはウェブサイトの更新をしていたり、当時まだまだ黎明期とも呼べる時代だったブログを利用し始めたりと、プロレスやりながらもそちらの方面に興味を持ち始めていました。

制作に必要なソフトは違法コピーされたDVDをネットで購入し(当時は違法コピー商品だと気づかなかった…、絶対ダメですよ)環境を揃え、あとは本を買ってきてひたすら実践。

少しずつ覚えてきたところで生活もガラッと変えて、本格的に治療も開始。

思えばこのときは本厄だったんですよね。

一番調子に乗っていた時期、その油断しまくった状況に本厄が襲ってきたんですね。

この時期が無ければ…と思うこともありますが、良い教訓になったんだと思うようにしています。

ウェブ制作仕事の開始、そして練習再開、そしてそして復帰戦へ

もう試合はしないつもりでいたので、ウェブ制作の勉強は続けていました。

当時mixiの日記でそんなことを書いていたら、そこに小学生時代の友達からサイトを作ってくれないかと初の制作依頼。

デザイナー経験どころかディレクターなんて言葉もわからない状況の中、とある法人を紹介されて打ち合わせからディレクション、デザイン、構築まで全て行いました。

その時お世話になった方々には本当に感謝してます。
その当時はそれで良いと思っていたけれど、とんでもなく恥ずかしい技術だったので、機会があればお詫びしたい…

そんな感じで仕事も少しずつできるようになり、治療も順調に行き始めた頃、これまた少しずつ格闘技の練習も再開していきました。

そうするとまた何かの縁で今度はレフェリーをやってみないかと誘われるがままに格闘技興行のレフェリー、ジャッジをやることになりました。

このときは全国回ったりして各地で遊べたので、これはこれで楽しかったですね。

そこで出てきたのが総合格闘技の試合を1回やって、ちゃんと区切りを付けるというお話。
大した実績もなく一度中途半端にフェイドアウトしていったにも関わらず、こんなお話をいただけるなんて光栄だったので、これも断る理由がなく受けさせていただきました。

当初は2007年9月の試合を予定して練習に励んでいました。

が…

諸々の大人の事情により話自体が流れました。

追い込んで練習していた緊張の糸が切れたのか、重度の蜂窩織炎にかかって入院。
どす黒く腫れ上がり右ひじ付近に溜まった膿を出すのに麻酔無しで切開したのは今でも忘れない思い出です。

格闘技の試合が無くなり、何もないまま9月が終わろうとした2007年9月30日の深夜、一本の電話が入りました。

池田大輔さんからの着信。

前日もバチバチの会場手伝いでお会いしていたので、何か大会関係のことかと思って出てみると全く予想もしない連絡でした。

池「来月のバチバチ第一試合で吉川祐太とシングルやる気あるか!?」

森「えっ!!」

池「やるのかやらないのかどっち!?」

森「自分が試合に出るとご迷惑かけるかもしれませんよ…」

池「そんなことはどうでもいい、やるのやらないのどっちだって聞いてんだよ!?やる気があるならやれ!」

森「やりたいです!」

池「じゃあ決定!また連絡するよー」

森「…よろしくお願いします!」

あっという間の流れでまさかの復帰戦が決まるのでした。

復帰戦…そしてホワイト森山誕生!

まさかの復帰戦。

2007年10月20日、バチバチ9のリングにて私のプロレスラー人生第二章が始まるのでした。

翌月の二戦目は、今やプロレス界の至宝ともいえる飯伏幸太選手との対戦。

翌年2月の試合後にリング上にてバチバチ主催のフーテンプロモーション入りを志願し、その場で代表の池田大輔さんより「フーテン入りするなら、お前は今日からホワイト森山だ」の一言と、お客さんのノリで、そのままリングネームがホワイト森山となる。

Wikipediaの記載にも「改名させられた」とあるように、誰が見てもいきなりで嫌々受け入れた感は否めなかったと思います(笑)

最初は本当に嫌でした。。。

が、このリングネームがこの後の人生を大きく変えて行っているような気がします。

ホワイト森山

フーテンプロモーション入団後はメインでの試合を任されることもあったり、強い相手、有名な選手とも対戦することや、お客さんからも大きな声援をいただいたり、本当に充実した選手生活を送っていました。

ただ、バチバチルールの激しさ故、脳震盪で試合後に病院直行、腰のヘルニア、アゴの骨折、その他も大小様々なケガとの闘いでした。

そして、ホワイト森山を名乗ってから2年半、一つの決断の日が来るのでした。

結婚、引退、第一子誕生

2010年6月の試合でアゴを骨折し、入院・手術。

2010年10月に結婚式を挙げて、翌月には子どもが出来たことがわかりました。

現役と同時進行でいたWebデザイナーの仕事も多忙を極め、このまま子どもが産まれる状況で大きなケガをこれ以上抱えるわけにはいかないと判断し、2011年1月に予定していた復帰戦を無理言って引退試合にしていただくことにしました。

2011年1月30日、小野武志戦にて現役引退しました。

ホワイト森山

池田さんからは「いつか戻ってくるかもしれないから、テンカウントゴングはしない」と言って送り出していただき、引退の挨拶と胴上げだけしていただきました。

頸椎ヘルニアの時に心が折れて、自ら引退すると言ったときとは違って、やれるだけやりきっての引退を決断したので悔いはありません。

2010年~2019年

現役引退とともにウェブ仕事も激しくなり、自分で言うのもおこがましいですが、この辺りは結構働いていました笑

ウェブの仕事もまだまだ修行中の身で仕事先も転々としながら、長女が産まれ、二女が産まれ、体を動かすことも全くなくなり、すっかりお父さんの体へと退化していくのでした。

仕事の方は最初に入ったのがECサイトを運営する事業会社の中の制作部門で、その後も同じように事業会社の制作チームを経験してきたので、制作会社という枠の中では働いた経験がないので、実際のところ制作のノウハウみたいのは未だに分からないことも結構あるかもしれませんね。

2014年に入った美容系商材を扱う会社での制作仕事は特に自分の中でも大きな経験となり、部署を通して色々な人と仲良くなったり情報交換できたりで結構楽しく過ごせてたかなと思います。

2018年には長女の小学校入学と嫁さんの仕事が忙しくなってきたタイミングで自分が会社を辞めて独立。不安よりもやってみたい気持ちが勝ってしまい、独立してみました。

どうにかこうにか生活していく中で、三人目の子どもができたのが2019年9月。

出産までのプランを会社に相談した嫁さんが、まだまだこの国に根強く残るマタニティハラスメントを受けて退社。
そこまで担当していた事業をそのまま引き継ぐ形で2019年11月に会社設立し、まさかの展開ながら今に至っております。