どうもホワイトです。
ブログ10記事更新、そして自己紹介の一環として、総合格闘技イベントDEEPに出場するまでの経緯を書いてみたいと思います。
口頭で誰かに説明することはあっても、こうやって書き記すことはなかったので、ブログを書きながらその当時の状況を振り返ります。
プロフィールページでざっと振り返ったものを深掘りした感じです。
まともなスポーツ経験なしからのU-FILE CAMP入会
よく話していることですが、小さい頃からスポーツが苦手で自分自身もあまりやる気が無かったのでスポーツに触れずに育ってきました。
小学校3年生ぐらいからは少しずつ体を動かすようにはなってきたものの、少年野球に入って継続的にスポーツするなどの習慣はなく、ようやく6年生の時に1年だけ少年野球をやってました。
中学は剣道部に入るものの、体力が無かったので練習に付いていけない。
中学1年のときで握力が20kgにも達せず、背筋力に至っては60kgにも満たない状態だったので、かなり辛かったです。
試合に出ても当然勝てるなんてことはなく、最終的には出たり出なかったり不安定な続け方をしているうちに、2年生の終わりのとき顧問の先生が異動になるということで、剣道部が消滅となりました。
それ以来、高校生活を通じてもちゃんと部活に入ることなく、大学に入ってからも大してやりたくもないくせに適当な野球サークルに入ってダラダラ…
それでもやっぱりどっかでは格闘技やりたいなぁと思っていたところ、地元近所にU-FILE CAMPオープンの一報が。
行きたい気持ちはオープン当初からあったけれど、こんなに体力無い&スポーツ歴もまともにない奴が格闘技なんかやっていいのだろうか!?と悩むこと1年近く。
相変わらず大学のサークル活動はつまらなくフェードアウトしつつあったところで、やっぱり格闘技をやってみたい気持ちが最高潮に達し、勇気を出して遂に入会。
最初は恐る恐るだったものの、やっぱり一番やりたいことだったということもあって、ほどなくしてほぼ毎日、大学→バイト→U-FILEのコースに。
関節技なんてテレビで見てるだけじゃ、どこをどうやって極めているのかわからなかったものを体験してみる→かけてもらってみる→スパーリングでそれができるようになると素直に嬉しい!楽しい!
一番純粋に格闘技に没頭していた時期でしょう。
練習から実戦、アマチュア大会出場へ
大学にも友達はいたけど、特につるむこともなく格闘技にどんどんのめり込んでいき、アマチュア大会に出場。
初めて出場したSAW(サブミッション・アーツ・レスリング)の大会で3位入賞。
今まで何かスポーツで勝つということを知らなかった自分が表彰されることが来るなんて夢にも思わなかったですね。
※表彰式の写真はネット上で拾ってきたものです。出所がわからないので…勝手に使用してすみません。
この頃になるとジム仲間に連れられて他のジムや道場に出稽古に行くことも多くなっていました。
普段と違う環境に身を置くと、とんでもなく強い人と練習出来たり、全然知らない技術で極められたり、刺激が受けることが出来て、それを持ち帰ったときに自分がレベルアップしていることを実感できるのが楽しかったですね。
一度だけ須藤元気さんともスパーさせていただいたこともありますが、当時は面白いぐらいに歯が立たなくて凄かったことが印象に残ってます。
以降もアマチュア大会には出続けていたものの、同じく出場していた周りの仲間たちはいつの間にかどんどんとプロの道へ。
就職活動もせずにプロの試合に出る選手達の練習に付き合っているうちに、朧気ながら自分もそういう試合に出れたらなぁと思うようになってきました。
でも、一方では元来のスポーツ苦手意識から、プロの試合に出るなんてとても無理だろうという気持ちを持ち続けていました。
そんな揺らぐ気持ちを抱えているうちに就職先も決まらず大学卒業となりました。
予想だにしなかったDEEP出場のチャンス
特に就職活動もせずに大学卒業したもんだから、卒業後は当然バイトの日々。
朝からバイトに行って夕方終わってU-FILEに直行して閉館近くまでいる。
周りには更にプロ選手が増えてくる。
自分より後から入ってきた人たちもプロデビューしていくし、飲み会で点数稼いだような弱い奴もプロデビューしたりで、そろそろ大学卒業1年だし、どこまで続けるのか区切りをつける時期かなぁと思っていたところで、回ってきたDEEP(当時はDEEP2001)7th IMPACTへの出場チャンスがやってきました。
初開催となったアマチュアからプロへの登竜門となるフューチャーキングトーナメント。
予選は大会前の客入れ時間。決勝まで行けば本戦でスカパー生中継。
当初U-FILE CAMPから出場予定だった選手がケガで欠場となり、代打予定だった選手も話を断ったため、代打の代打で回ってきたチャンス。
しかしながら、その大会の2週間前に出場したコンバットレスリング(関節技ありの結構ハードなレスリング)の大会で、右鎖骨をはく離骨折していたため出場を決断するまでに悩みました。
それでも出ると決めた理由は、その日のメインで戦う長南さん。
練習中に足を負傷し、試合までの2週間はほぼ歩けない状況。
練習も全くできないのにメインを任された責任から出場すると言っている。
自分らのことをよく面倒見てくれた長南さんのそんな姿を見せられたら出ないわけにはいかないと思い、自分も出場を決めました。
格闘技生活最後の思い出作りには充分すぎる最高の舞台だろう。
そんな気持ちで当日を迎えました。
まさかの決勝進出、そしてKO負けで記憶なし
2002年12月8日はとても冷え込む寒い朝だったことを覚えています。
同門の中村大介も同じ階級で出ることになっていたので、ジム会員さんの車で一緒に会場まで乗せていってもらいました。
試合前日にはコスチュームがないだろうと、長南さんが試合で使っていたキックパンツを貸してくれ、入場時に使えとオリジナルの「殺」Tシャツを授けてくれました。
キックパンツはさすがに返したけれど、このTシャツはそのままいただけたので今も大事にとってあります。
選手集合時間となり、いざ計量。
82kg級出場なのに、当日計量で73kg(笑)
当然最軽量で、下の階級の方が合ってたぐらい。
そしてトーナメントが始まりました。
1回戦は試合開始から普段一切練習しない打撃、それもローキックで攻めまくって相手を追い込み判定勝ち。
普段はほとんど練習していない打撃で攻め込む姿を見て、会場で見ていた仲間たちから笑い声が聞こえたことは忘れない(笑)
2回戦は同じU-FILEの中村大介。
グローブ付けて顔面パンチありなのに、ひたすら寝技の攻防する二人に仲間たちから笑い声が聞こえたことは忘れない(笑)
さすがに寝技の攻防となると当時の中村大介に負けるはずもなく、順当な勝利。
結果としてまさかの決勝進出を果たしてしまったのである。
ところが、ここからが厳しかった。
当日は雪が降りだすような寒さ。
決勝は本戦開始後の第3か第4試合だったため、時間が空く。
温まっていた体が冷えたことで1回戦で蹴り続けていた足の痛みが出てきて歩くのもツラい状況になってきてヤバい予感はしていた。
そして決勝戦が始まる頃には完全に体が冷えて固まり最悪…
相手は1回戦、2回戦とも秒殺KO劇で勝ち進んできた最重量の藤沼選手。
試合開始早々、突っ込んでくる藤沼選手にアームロックを仕掛け、上手く回せば行けるかなと思ったんだけど、足のダメージから全然踏ん張りが効かずにそのまま寝転がった状態で上を取られ、そしてずっと殴り続けられ、いつのまにかTKO負け。
途中一度、後頭部だかこめかみだかにパンチが入ったのがメチャクチャ痛くて、そこから停電したように目の前が真っ暗になって一切の記憶がない…
起きて気づいた時には控室で寝かされて中村君が付き添ってくれていた。
この藤沼戦は格闘技からプロレスを通しても唯一悔いの残っている試合。
ともあれ、想い出作りの気持ちで臨んだDEEPで本戦のリングに上がり、試合翌日の頭部の検査では異常なく、諦めかけていた格闘技生活を続けることが出来るようになるのでした。
後にも先にも、こんなにキツイ状況で試合したのはこの日だけでしょう。
この時のこと思い出せば何でも乗り越えられそうなもんだけどな…
そんな格闘技戦デビューの思い出です。